難聴について(その2:大学入学〜就職まで)

大学入学と一人暮らし

大学は東京だったので実家を離れたんですが、難聴であることを初めて実感したのはこのときでした。東京ということで、金銭面などからとある寮に入ったんですが、その寮は昔ながらの寮生による運営がメインだったので、電話番というのがあったんですね。

電話そのものは、また補聴器をしていなくても知っている人間とのやりとりであればなんとかなっていたんですが、電話番というのは、まったく知らない人からの電話を寮生のだれだれさんに引き継がなければならないわけで、これはかなりの苦痛でした。で、それが嫌で半年で寮を出てアパートで一人暮らしを始めました。

大学生活は、講義にはろくに出席しない不良学生でしたが、バイトや友人と遊んだりとそれなりに充実した生活でした。会話もまだ出来ていたように思います。

就職活動と補聴器着用

ただ、知らない人からの電話に出るとうまく受け答えができないというのは、今後の生活を考えれば色々と問題があるわけでして、ちょうど就職活動を始めた大学4年のときに、母親が心配して都内どこかの大きな病院1で検査をしました。そこでの検査結果は、手術は可能だけど、回復の可能性はそこまで高くないというような話でして、そこで初めて補聴器装用を勧められました。最初は左耳にだけつけたように思います。

初めて補聴器をつけたときは、車の騒音やらなにやらが一気に頭の中に入ってきて「世の中とはこんなにもうるさかったのか」というのが率直な感想でした。聞こえがよくなったという実感はありましたが、聞きとりがよくなったという実感はあまりなかったのかもしれない。それでもこの頃までは、まだ補聴器をしていなくても多少は音は聞こえていたし、会話もできていたのではないかと思います。

大学院進学後と補聴器両耳着用

結局、就職活動は中途半端にやめまして、大学院に進学しました。大学院ともなるとさすがに普通に講義にも出席していましたが、ゼミは少人数だったし、指導教官には耳の話はしていたので、あくまで個人的な感覚だけど、会話について問題を感じたことはなかったと思います(もちろん補聴器はしていましたが)。ただ、補聴器に関しては、その当時はアナログ式が主流で、かつイヤーモールドを作成していなかったので、ハウリングをすごく気にしながら生活していました。

大学院は、修士課程から博士課程で別な大学へと進学しましたが、一番大変だったのは、博士課程の院試の面接でした。面接官(のちの指導教官)の方言(+早口)がさっぱり聞きとれなくて、まったく受け答えができなかったんですね。それでも合格できたのは未だになんでだろうと思っていますが、まあ修論の出来が悪くなかったんでしょうね。

博士課程に進学した後に、補聴器は両耳着用になりました。これは補聴器が故障したときに補聴器店へもっていったところ、身体障害者手帳を取得すれば両耳適用になりますと勧められたからなんですけどね。耳穴にぴったりはまるカナル型のを作ってもらって、生活の幅が広がったと感じたことを覚えています。

ただ、両耳に補聴器をつけても、研究会とか居酒屋での飲み会などでは聞きづらさを感じることが多くなりました。安普請のアパートに住んでいたので、テレビの音が大きすぎて苦情を言われたこともありましたね。

就職

就職に関しては、業績だけでとある場所で研究職に就くことができました。面接があれば緊張してうまく聞こえなくてそれで評価が下がる可能性もあったかもしれないんですが、そういう形ではなかったので、今の時代ではありえない話なんですけど、自分にとっては非常に幸運でした。一応、指導教官に耳の件を含む自分に関する推薦状のようなものを書いてもらいましたが、それについて聞かれることもなかったので、意味があったのかどうかは不明です。


  1. この病院というのがどこだかが全く記憶になくて、自分の中では大宮近辺の病院だったような気がしているんだけど、別な記憶として検査が終わってすぐに新宿西口のリオネットの補聴器店で補聴器を購入したというのがあるので、その近くというと東京医科大学なのかなあ。